利根川のほとり

自分に負けない!

最近考えたこと

2月〜7月にかけて考えて、近しい友達にだけ見せていた文章を加筆修正して一部公開してみます。

「社会人」という呼称について

4月から社会人だね~」と言われる機会が増えた。その度に私はキレそうになる。私、生まれたときからすでに「社会」に強制的に参加させられている「社会人」なんだけど。社会人2n年目やらされてもろてますけど。労働者以外は「社会人」じゃないとみなすの、労働者以外は社会から実質的に疎外されているという事実/労働以外は社会参画にあたらないという偏狭な価値観を示しているだけではないか?などとゆー屁理屈を昨日友人に言ったら「いやでも責任のデカさが違うのが社会人じゃん」と反論された。これには全くもって賛同できない。誰しも一律に社会に対して責任を持つべきであるし、持たないべきではなかろうか。そうやって社会への責任の多寡を社会的な位置によって分けたりするのが政治・他者への無関心につながっているのではないか?選挙に行かないのも、感染症で人が死のうが無関心でいられるのも、本当の意味で自分は「社会人」だと思えていないからなんじゃないですか?知らんけど。とにかくちゃんと「4月からフルタイム労働者だね~」と言ってください。

ミソジニー

この間高校の部活の友人と電話をしていて、私たちの部活のコミュニケーションって変だったよね、という話になった。そして、私たちが所属してい演劇部では「優しい嘘」をつくことを過剰に嫌悪する傾向があった、と指摘され、なるほど、と思った。確かに、「ネガティブなこと(「〇〇は演技が下手だ」とか「〇〇に××の役を演じてしてほしくない」)は例え本人を傷つけることになっても、必ず本人に伝えなくてはならない、それが本人のためだ」という価値観が浸透していて、しかもそれができない人間を排除しようとしていたと思う。そして、その「優しい嘘」への嫌悪感は今でも私の価値観の奥深くまで浸透し行動規範になっているわけだが、それは私が内面化しているミソジニーとも関連している気がする。実際、具体的な名前は言わないけれど、「建前」を重視して他人に本音を言わない人間ないしそういう人が多いコミュニティ(ここでは仮にダンス部としておこう、違うけど)のことを「女々しくて/«女»って感じで 嫌だな」と思っていた。この辺、ギリガンの「正義の倫理」とかと関連させて誰か言語化してくれないかな。他力本願。高島鈴が『作りたい女と食べたい女』の書評の冒頭、自らの女子校時代のエピソード(大変小さな弁当箱を持ってきている生徒を、他の生徒が「女みたいな量食ってんじゃねえよ!」とからかった)をつづっていた*1が、私はまさにその「他の生徒」だった。

クレヨンしんちゃん

ここ最近、クレヨンしんちゃん映画しか見ていない。基本的にどの作品もハズレがないが、「天カス学園」はマジのガチの傑作なのでみんな見てほしい。

クレしん映画のすごいところ

①なんか作業中に見ても許される気がする

これはすごく大事。わたしは映画ってすごく重いものと思っているから、家で映画を見る際は事前に体調を整え、部屋を片付け、正座して見なくてはならぬくらいの心づもりでいる。だからあまり家で映画が見られない。ちょっとずつ見るとか、作業用BGMなんてもってのほか。しかしクレしんは、なんかいい加減な気持ちでに見ても許される気がして、ふとしたときに途中まで見ようかな、と作業中BGMとしてバンバン流せてしまう。結局最後まで見るし、作業もしないのだが。

②短い

大体全部90〜105分で終わる。大学の一コマより短いじゃん…さすが子供の集中力の限界をよくわかっている。

③結構尖ってる

映像表現、結構尖ってるよね。いいもの見た気になれる。

④風間きゅん

風間きゅん、情緒不安定でマザコンで特定の同性に強い感情抱いているの、オタクを沼らせる素質しかないだろ(激怒)

特に天カスは、クレしん映画にありがちなトロフィーとしての女性キャラクター表象やラッキースケベ描写や「規範的な家族」の取り戻し描写もなくて、ひたすら「友情」にフォーカスされており、見ていてかなりノンストレス。おすすめです。

「カスカベボーイズ」もかなり映画として良い(し、風間きゅんが愚か可愛い)のだが、映画オリキャラのキャラデザが平成のエロゲっぽくて、制作者の欲望が垣間見えてちょっと気持ち悪い。「踊れ!アミーゴ」は脚本は不味いが、映像が良いので比較的低評価なのが少し悲しい。

吸血鬼すぐ死ぬ

卒論執筆時期にアニメにハマっていた、というかものすごく救われていたのだけれど、ここ最近やっと原作を一気読みした。倫理観がしっかりしていて、かなり素晴らしいギャグ漫画だと思う。主人公が混乱して雑巾食べるエピソードが好き。

会社、民間療法的推し文化、公務員、ジュンブラ、オリンピック

会社の人間、ガチで酒と異性と運動にしか興味がない人間が6割(リアルな数字)すぎて辛い。酒と異性と運動、普通に興味も適性もないのに周りに合わせるために興味と適性が人並みにあるフリをすることに毎日消耗する。休憩時間中にアップルから請求書が来てその金額に思わずわっ、と声に出したところ飲みサーの権化みたいな同期にそれを追及され正直に課金でウン万の請求きた、と答えたところ、鼻で笑われた。確かにソシャゲ課金って飲み会並に最悪の無駄遣いであるとは思うけど、私は泥酔して人の物にゲロかけたりはしないので私の方がマシだと思う。

会社、同じ趣味の知り合いはできたけど、やはりどうしてもホモフォビックな言葉遣いとかが鼻につくし、情動と肯定が全ての民間療法的推し文化(推しは健康に良い!推しに生かされている!的なやつ)に完全に取り込まれている感の強い人しかいないので、距離を感じる。推しは健康に良いとか私は絶対に言いたくない。そんなくだらないもののために趣味やってるんじゃないよと思ってしまう。

いずれにせよ、ネオリベ御用企業っぷりとかLGBTフレンドリー企業を自称しながら社員の意識がゴミカスでプライドマンスは「性に限らず色々な多様性」とお茶を濁しマイノリティの権利に関して会社としてまともなステートメントすら出さないカスっぷりとか女性役員比率低すぎのくせに偉そうに女性活躍が~とか男の役員が云々言っているのがマジでクソキモくて嫌すぎるし、そもそもビジネスだのマーケティングだのそれ自体に全く興味がないことを日々思い知らされ、とにかく苦痛。出願忘れたのと天皇制支持できないからと言って公務員受けなかったけど、天皇制より資本主義の方がもっと嫌いだから、ちゃんと検討すべきだったかもしれない。というか資本主義と天皇制、ひいてはイエ制度自体がいやなのにソシャゲのジュンブライベントに課金して走っていた自分が本当に情けない。ジュンブライベントマジでいらねえ💢とか言っていても結局私みたいにジュンブライベントで課金するユーザーがいる限りジュンブライベントはこれからも続くわけで、私はある意味ジュンブラ/家父長制/ロマンティックラブイデオロギー温存に与してしまったのである。2021年の夏、オリンピック反対とか言っていたのにオリンピック中継の話をしている人間を見て私は心底軽蔑していたけれど、自分も同じだったしそれ以上に害悪だ。

政治

安倍晋三が殺された日、会社の人にその話を振られたので「そもそも安倍晋三はきちんと法の裁判を受けるべきだった、そうすれば政治家生命を絶たれ暗殺されることすらなかった、大体これを機に選挙でこれ以上自民党有利になったらたまったものではない、犯人はなんて愚かなことをしたんだ」みたいなことを熱弁したら「ちょw政治的すぎwやめw」みたいなこと言われて、あ、ごめーんwとなりその場は治ったのだが、よく考えたら意味わからなすぎる。そもそも安倍晋三というきわめて「政治的」な話題を振ってきたのは向こうだし、私はそれに乗っかっただけではないか。一般に「ビジネス」の場では「政治」「宗教」の話題は避けるべきと言われているらしいが、去年くらいに大学のサークル活動の協賛周りで会った会社のおっさんとか教習所の教官は普通に眞子と小室圭の結婚の話題を出してきていたので、嘘じゃないの?と思う。え、もしかして「皇室」「政治家」の話題がそもそも政治的じゃなかったりするの?じゃあ逆に何が政治的なんだよ。

階級闘争

先日友人と参院選はどこに入れるか、という話になり「維新に入れる」と答えられた。彼女はどちらかといえば「リベラル」な人だと思っていたので、心底びっくりした。理由を聞くと、「所得税」に関する政策が決め手だったらしい。「今の維新以外の政党はどんどん所得税を重くする方針にしている。たとえ1億稼いでも税金に取られて2000万円しか手元に残らないし、よもやそれが怠け者の生活保護受給者に使われるなんておかしい」みたいなことを言っていて、色々と驚いてしまったし、「階級」を感じた。彼女が資格専門職・個人事業主(予定)である一方で、自分は結局、自ら生産手段を持たないプロレタリアートなのだと。中高まで同じ教育を受け、ほとんど同じ価値観を共有していたはずの友人とこんな形で隔たりを感じるなんて、単純に切なかった。

同時に、私自身企業の一存で明日生活保護受給者になっても少しもおかしくない(少なくとも、年商1億になる想像より生活保護受給者になる想像の方が容易い)立場であるからこそ社会保障に手厚い政策を支持しているにすぎず、仮に自分が友人のようなブルジョアジーだったら少しもそういう政策や立場にシンパシーを抱けず支持もしなかった可能性はあるなとも思った。階級闘争ってコト!?

ゴールデンカムイ

コロナにかかって暇すぎて、二日間でゴールデンカムイ全巻読んでしまった。面白かった。緩急がすごくて、そこが唯一無二の作品だと思う。でもこういうコンテンツっていつまで「父殺し」を主題にし続けるんだろう?とも思った。ちょうど最近ファイトクラブの原作を読んだので尚更。鶴見中尉もタイラーダーデンも全く私は魅力的に思えないのだが、両者とも作品外の世界で非常に熱心に人気を集めているようで、不思議に思う。みんなファザコンなんだ?鶴見・月島・鯉登はドストエフスキー『悪霊』におけるスタヴローギン・シャートフ・キリーロフにそのまま当てはまるので、これを機に『悪霊』も読まれてほしい。