tonegawandreのブログ

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逃げるは恥だが役に立つ新春SP感想、文句

逃げるは恥だが役に立つ新春SPに対して抱いた感想を列挙してみる。ネタバレ注意。

  • 論破しすぎでは?
    前半見ていていだいた感想はまず、スカッとジャパン?だった。そのくらい、主人公たち陣営VS新キャラ陣営の対立構図がはっきりしていて、主人公たち陣営が新キャラ陣営を論破しまくる。正直むかついた。野木脚本作品、私は逃げ恥、アンナチュラル、MIU404しか見たことがないが、いずれも(特にMIU404)「レッテル貼り」や「悪意の他者化」への問題意識を強く感じていたので、このような論破展開は正直いやだった。(その分、セクハラ上司がコロナ対応に関しては適切に処していた、という描写は良いと思ったけれども。)ヒラマサもみくりも、お前らそこまで偉いんか?と思ってしまった。論破の数はもっと少なくてよかったんじゃないかなあ。(これに関しては、もちろんヒラマサだって男は子育て手伝う程度でいいんだぜー♪的家父長制的価値観を内面化していたことが明らかになる描写もあったしもちろんスカッとジャパンではないんだろうが、やっぱ論破シーンはどうみてもスカッとジャパンすぎて、いやになってしまった)
  • 主人公らは結局「紋切り型」なのが残念
    このドラマでは、いわゆる「多様なライフスタイル」の人々が描かれる。シングルマザー、ゲイカップル、レズビアン、自分一人の家を持つ独身女性―そして主人公二人は、ヘテロ男女カップルだが、現在の日本の家父長制的制度・価値観に違和感を持っている。それゆえに二人は選択的夫婦別姓が実現するまでは入籍せず事実婚状態でいると決め、子供が生まれても二人とも同期間の育休を取得する。しかしながら、その二人の目標は作中もろくも敗れる。前者に関しては、妊娠によって。そして「女」だから、という理由ではなく、様々な就労条件を加味したうえで、みくり(女)の方が姓を変える。後者に関しては、コロナ禍によって。ヒラマサ(男)の方が就労条件の厳しく人手も潤沢ではない(おそらく)ベンチャーであるため、育休短縮を余儀なくされる。
    結果だけ見ると、主人公二人は女が姓を変え、男だけが働きに出る、という、非常に紋切り型カップルとなってしまったのだ。もちろんそれに至るまでにいろいろな思惑、原因があったとしても、なんだかなあ…と思ってしまった。せめてドラマの中では、口先だけでない、本当の新しさを見せてほしかったなあなどと思ってしまった。みくりだけ育休短縮する、という展開の方が見たかった。これは野木の意図的なものなのだろうか?(そんなに簡単に社会は変わらねーよ、的な?)それにしてもちょっと悲しい。

  • ガンバレ人類!
    うるさい

  • まとめ 
    ちょっと全然あんまりまとまってないけど、全体的にこのドラマは面白いと思う。色々問題提起されていて、それだけでも価値の高いドラマであることに間違いはない。ただ、意外と収まるところに収まってしまったなあという、若干肩透かしを食らった感があった。とりあえず世界はもっとよくなってほしいし、コロナは滅べ、あとガラスの天井全然割れないな、おかしいな。

宝塚『アナスタシア』感想

1月某日、東京宝塚劇場にてアナスタシアを見てきました。
大劇場千秋楽は配信で見ていたので、実質二度目。以下、色々よかったところ、違和感についてを書きます☆

よかったところ

和希そら様のレベルが高すぎる

和希そらが私は大好きなのだ。今一番好きなジェンヌさん。彼女はもう、歌、ダンス、演技、どれをとっても技術力が半端なかったです。二幕は正直彼女しか追ってなかったので、どういう話だったのかよくわからなくなったくらい。(おい)
どうでもいいけど、二幕の「侍女たるもの、自分の時間はございませーん」という台詞、一回目みたとき「次女たるもの…」だと思って鬼滅パロ?などと思ってしまいました。(は?)

キキちゃんの笑顔が最高

フィナーレのキキちゃんの笑顔にやられてしまいました。きらっきらすぎて。

民族、国の描き方がそこまでステレオティピカルでない

たまに宝塚作品で祖国とか亡命とかテーマになると民族ステレオタイプにまみれることがあってそういうの私大嫌いなのですが(拝金主義のアメリカ人とか、マッチョで片言のラテンアメリカ人の表象とか、虫唾が走るんです!どの作品かとかは言いませんけどね!)、この作品ではそのへんの違和感がなくてよかったです!パリも革命ロシアもフラットな表象だったと思います。

星風まどかちゃんが好き

かわいいし、強い。セーラームーンに出てほしい!(いつどこで誰役で?)

違和感

ディミトリが主人公であるせいで色々中途半端になってませんか?問題

見ていて思ったのが、なんかどこをとっても中途半端だなと。
そもそもこの物語って本来、タイトルロールであるアナスタシア(アーニャ)が過去の記憶を取り戻していき(Journey to the past)、「自分が何者なのか」を解き明かしていくのが主題だと思ってたんです。
しかしディミトリが主人公になることでそのあたりの掘り下げが中途半端になり、挙句の果てにJourney to the pastやOnce upon a Decemberというアーニャの記憶取り戻したいぜ曲でディミトリがしゃしゃり出てくるもんだからよくわからなくなってる。ディミトリの過去(=アーニャと実は昔出会っていた)を無理やりつなげてディミトリが一緒に記憶、過去関連曲歌うんですが、これがめちゃめちゃピンとこない。宝塚オリジナル曲だという「She walks in」でその自分の過去の記憶についても歌うんですが、このエピソードをそんなに何度も言及するなら口頭だけでなく視覚的にもわかりやすく提示した方がよいんじゃないでしょうかね……。
あとアナスタシアがヒロインだと対グレプ構図が明確になって、グレプの存在意義がわかりやすかったんでしょうが、ディミトリが真ん中にいると残念ながらグレプの存在意義がまったくわからなくなってかわいそうだった。。グレプ、マジで何もしないんですよねディミトリ中心プロットだと。こんな中途半端な三角関係、ある?(まあ宝塚だとわりとあるかも)

ホーム、ラブ、ファミリー?

一番の違和感は、この作品がやたら「ホーム、ラブ、ファミリー」を押し出してくること。いや、確かに家族も祖国も重要なテーマではありますが、そことラブを並べるのはまったく違くありませんか?
だってこの作品、アーニャは結局アナスタシア・ロマノフではなくただの「アーニャ」として、そして身分の異なる男と、祖国でない国で共に生きることを選ぶわけです。
しかも、「父親の無念を晴らす!」と意気込んでいた男グレプ(正しい発音はこれです。)は、アーニャへの身分もろもろ超越した「ラブ」故に最終的に「父親の息子になれなかった」と言って挫折してしまう。
この話においては完全に、「ラブ」はファミリー、ホームの上位互換として存在するんじゃないんですか?ラブはまさにアナーキーなわけですよ。(身分制って、家族制度ともちろん密接にかかわってますし)
ところがこの演出では挙句の果てにラストシーンでロマノフ家の家族写真でディミトリが加わるの、気持ち悪すぎてうわー!と声出そうになりました。は?アナスタシア結局何者として生きるんスあ?
また、「Stay, I pray you」という歌も、原詩では「I bless my homeland till I die」(私は祖国に祈りをささげる、死ぬまで)という歌詞が「わがふるさとに愛を」になってて、うあー!となって、もう完全に解釈というか価値観合わないなと思いました。確かに「祈る」という言葉は直感的にわかりにくいかもしれないけど…亡命者は必ずしも祖国に愛を持っていたのか?「愛」を持っていなくても祈りはささげられるんじゃないか?「愛」なんて簡単に割り切れるものじゃなくないか?はあ~~となってしまいましたとさ。
まあ宝塚なんでとりあえず愛愛いっときゃいいんでしょうが…でもだからこそ私は、ホーム、ファミリーの上位互換としての愛を描いてほしかったしそっちの方がプロット的にも自然だったと思うんですがどうですか?
なお、「ホーム、ラブ、ファミリー」完全に宝塚演出オリジナルこんせぷとかと思ってたら原曲でも押し出されていて混乱してしまった…このミュージカル、結局なんだったんだろう?是非オリジナルをちゃんと見てみたいところ。(オリジナルはサントラしか聞いていない)

宝塚を見ているときくらいもっとハッピーでいたい

こんなしょうもないことうだうだ考えながら宝塚見るのやめたいのにやめられない。

すべて無責任ですごめんなさい!!!!!間違いがあったら教えてください

中高時代の友達と会ったらみんなが男とセックスの話しかしなくなって辛くなった件

お気持ちお整理ブログを開設してしまった。昨日中高時代の友達5人くらいと会ったらみんなが男とセックスの話しかしなくて辛くなったからだ。
そもそも彼女らとは、特に話題がなくてもフィーリングで話せる、居心地の良い、理想的な関係のはずだった。しかし、久しぶりに会ったらみんな男とセックスの話しかせず、私は辛かった。
私自身、きつい下ネタを口に出すことは好きだ。それ自体は非常にスリリングで面白い行為だから。友達の性生活の話に対しても、それに対してきつい下ネタを放つことでネタにして笑い飛ばすことができた。でも、疲れてしまった。無理をした。居心地が悪かった。自粛期間、一人部屋でひたすら本を読みひたすらイケメン・ゲーム(ジャンル名がわからない。女性向けゲーム、とかでいいんだろうか?)をするだけの生活を続けた結果、私は実生活における恋愛及びヘテロノーマティヴィティへの憎悪を一人で勝手に強めるようになってしまったのだと思う。「最近どうよ?」でまっさきに男の話になることとか、ちょっと爪に普段塗らないものを塗っただけで「彼氏できたの?」と聞かれることとかに、ようやく気持ち悪さをかんじるようになったんだと思う。それで、友人たちがそういうのに飲み込まれている事実がこの上なくつらくなったんだろう。馬鹿じゃねえの、と。性欲の奴隷か?と。私が女の子を、この中の誰かのことを、愛していたらどうするんだ?と。そんなことを思っていたら虚しくなって、早く家に帰ってソシャゲやりてえ、以外の感情がわかなくなってしまった。
みたいなことをいってもどうせお前は男をまだ知らないから勝手にこじらせているだけなんだ、男を知れば、恋愛を知れば、結局我々と同じ人間になるんだ、と言われるのだろう。それは否定できない。そもそもこんなことのためにこんなにごちゃごちゃ考えるものではないんだろう。が、お前らにはもっと自分らの気持ちの悪さにも自覚的になれよ、と言いたい。結局のところ、私もあなたもクソキモだ。

なんて凡庸な悩みだろうか。しかし私は、このような凡庸な悩みを、死ぬまでずっと持ち続けて生きたい。とても気持ちがいいので。というわけでお気持ちの整理を、これから頑張っていきたい。